「まんがタイムきららMAX」10月号

短めに。

落花流水」(真田一輝

「漫画だっていい本いっぱいある」「あのこと奥さんは知ってるんですか」だとか、イタリア→マフィアという発想とか、長い間連れ添ったカップルの型どおりの描写とか、その平凡さ、退屈さに、耐えられないまとめニュースサイト臭を感じる。
僕の知り合いはかつて、「D.C.」を「薄っぺらいエロゲの中では最高峰に属する」と擁護していた。「薄っぺらい萌え4コマの中では最高峰」と言われるためにはどうすればいいのか、を作者は考えるべきだと思う。

「ぼくの生徒はヴァンパイア」(玉岡かがり

48ページ左側の1、2コマ目のミナみたいな表情はちょっとどうかと。
カミラの着てる水着、可愛くていいですね。

「兄妹はじめました!」(愁☆一樹

登場人物のほぼ全員が鈍感――とかいう以前に、他人の内面に興味が無い人ばっかり。これぞ21世紀か?

「魔法のじゅもん」(あらきかなお

中学生の2人暮らしは家庭訪問的には問題ないのかしら。

にこプリトランス」(白雪しおん

4巻で終了とか書いていたし、少しずつ纏めにかかっているなあ、ここらへんの流れは(女性作家的な意味で)上手いなあ。
……と書こうと思っていたけれど11月号が出た今となってはそんなの自明ですね。いや、後出しじゃないんですよ、本当にそう考えていたんですよ!

ワンダフルデイズ」(荒井チェリー

僕は当然のことながらストーカー気質なのですが(勿論リコーダーがどうとかは無いですよ)、ストーカー気質の基本をしっかり把握している作者はいつもながら人間観察に優れた人だと思わされます。あるいは、本人もそうなのか?

「まんがタイムきららCarat」9月号

ちょっと文体変かも。

ひだまりスケッチ」(蒼樹うめ

えっちなお姉さんぶってる吉野屋先生は、自分が性的な存在としてまなざされることについてどう考えているのか。というのをSSにすると面白いと思います。
自意識過剰なキャラ、大好き。

「ラジオでGO!」(なぐも。)

きららにも就職している人を描いている4コマは幾つかあるが、大抵は"仕事"をしているようには見えない。教師はみんなテキトウだし(「教艦ASTRO」だって、"仕事"をしているかどうかといえば違うだろう)、エロゲメーカや漫画家だって、個人主義か頭おかしいかのどちらかだ。そんな中、この作品は、一貫して"仕事"を描いている。
僕は、泊り込んでのギリギリの準備や、仕事が終わったあとの飲み会や、クライアントとの妥協点のすり合わせのようなものを、心から憎悪している。「社会的な活動」という言葉をそういったものだけに用いることを止め、"仕事"の存在を自明視しなくなれば、世界はより良くなると信じている。
よってこの作品は敵と看做さざるを得ない。
……とはいえ、萌え4コマの先鋭化がどこまで続くか分からない以上、こういった作品が一定数あることは不可欠というのも、間違いない訳で。まあ、そんな感じ。

「うらバン! 〜浦和泉高等学校吹奏楽部〜」(都桜和)

部活4コマにおける顧問問題をテンプレどおりに手堅くこなした。このテンプレを確立させたことはここ3年ほどのきららの大きな功績ですね。
しかしこんなテンションの高いキャラを(しかも顧問という立場で)登場させて、漫画のノリが変わる気がするのは大丈夫なのかしら。

「空の下屋根の中」(双見酔

人間は、働くことを当たり前のように考えているので、働くとはどういうことなのかを時々忘れる。あまり働きたくない人間が働こうとしたときに、働くことの内容を本当に初歩的な部分から整理すると、「殆どの人間がとてつもないことをしている」という事実を彼/彼女は発見する。「脳内でシミュレートしたら仕事だけで1日が終わった」とかは分かりやすい例で。
この作品は、本当に基礎的な部分から、働くことの同意を積み上げようとしている。だって「もし、やりたいことがあるんだったら、それをやってもいいかな」「もし、他の条件をすべて忘れて、お金だけについて考えてみれば、ないよりはあったほうがいいよね」というレヴェルから始まるんですよ! 本当に自明な部分から始めて、共有できる部分を段々に増やしていく、というカウンセリングチックな議論の進め方に、リアルを感じまくりです。働きたくない人にとってはまずそこから始めないといけないというのは、本当に本当なのです。
そして、ここがポイントなのだけれど、結局のところ「1つ1つ共有できる部分を増やしていく」とかしたところで、働こうと考えるようになる訳なんてない。ありえない。だって、「寝ながら仕事」とか言い出さないとやってけないようなことを、どうしたら肯定できるというのだろう? 周りの状況(親の圧力、経済的な限界)に逆らえなくなるか、「意外とどうにかなるものだよ」「だってみんなやってるし」といった洗脳(=極めて巨大な飛躍のある理屈)を受けるか。働き出す理由なんてそれくらいしかない。

つまり、それらが排除されたこの世界において、彼女は働き出すことが出来ない。共有できる部分を増やそうとは試みながら、決して「働いてもいいかも」という地点に到達することは出来ず、その遥か手前に収束する点列を描くことになる。
……もしかして、扱っている問題としては、ニート漫画というよりは留年漫画なのかな?

「スリースリープ」(宮賀暦)

ああどこにでもある普通の萌え4コマですね、とか考えるのは間違っていて、この作品は萌え4コマの限界点に挑んでいる。
まずタイトル。「"スリー"スリープ」は、新キャラを入部させることはできない。萌え4コマは(古くは「あずまんが大王」の4巻から)常に新しい関係の構築と古い関係のフェードアウトに極めて意識的だった。初手から「新キャラは入部させない」と宣言するこの作品は、この問題についてかなり極端な立場を表明している。
そして部活の内容。萌え4コマは、それまでの「内容」を廃し、女の子の「どうでもいい会話」「だらだら」を描くことで特徴付けることが出来(あるいは、一般にはそういわれており)、実際近年のきららにおいては、ゆとりがゆとって遊んでいることを描く作品がかなり多くを占めている。しかし実は、ここにはパラドクスが存在する。だらだらを限界まで突き詰めると、昼寝というコミュニケーション不能状態に行き着いてしまうのだ。部活動として「昼寝部」を考えた作者は、部活4コマの本質と矛盾を、よく把握している。
多分作者はそんなこと意識していないのだろうが、ここまでクリティカルな作品となると、期待しない訳には。
正面から完全撃破するのか、萌え4コマが積み重ねてきた各種テクニックで華麗に問題をすり抜けていくのか、それとも全くお話にならない駄目駄目な作品になるのか? まあその前に連載にならないと、か。

「まっしろ天使」(たぬきまくら)

絵もキャラも魅せ方もめちゃくちゃだが、応援したくなる。
「めちゃくちゃ」が全て「駄目」ではない、ということの例証になってますね。

「エジプト天使パトラちゃん」(西野彦二)

「どうにも展開しがたい設定を第1話でつける→早々とその設定を放置し、よく分からない会話とノリで魅せる4コマになる」という最近のきららでよくあるパターンを、また1つの作品が見せました。エジプト全く関係ねぇ。

「まんがタイムきららMAX」9月号

遅れを取り戻したいところだ。

イチロー!」(未影)

まいちゃんの妄想中の水着のデザインが、水着よりも裸エプロンに近く見える。

「そして僕らは家族になる」(荒木風羽

画面構成が相変わらずすごい。カメラの位置もだけど、手書き文字の限界、会話の平行進行の限界に挑んでいる感がある。
内容について……「大西麗っぽい小笠原祥子」を想像すると面白い、かもしれない。2次創作的な意味で。

かなめも」(石見翔子

恋愛=2人だけの世界、というテーゼがあるけれど、かなとみかの場合、それが文字通りの意味で実現されている(「夜明けの誰も居ない町で、新聞配達の道すがら出会う」)。
この発想はセカイ系だ、とかいうのは勇み足だろうなあ。

魔法少女☆皇れおん(仮)」(桜みさき)

感性を阻害しない女装少年を生み出そうとする試みがここ数年流行りですよね。女装少年をちんこでしか特徴付けることの出来なかった時代は、終わりを告げようとしているようです。すげー。
皇れおん君のデザインの精密さを検討して、この手の「女装少年」のどこが「少年」なのかを考えなくてはならない気がします。恐らく、萌え4コマの世界において、ちんこは前シッポ以外の形で実在することが許されません(萌え4コマの世界において、全ての男性キャラにちんこがちゃんと付いていると信じて疑わないのは、無邪気な楽観に過ぎるでしょう)。それでも「女装少年」という概念が成立するのは、何故なのでしょう?
あと、ささめのデザインも何気に正しい。大まかな方向性はともかく、細かいところでのテクニックに抜かりがなくて、おー、という感じです。

「ぼくの生徒はヴァンパイア」(玉岡かがり

森の迷子の回はプラムとメイベルがセックスしたという隠喩みたいな感じで、今回のはダメ押し、と読むべきなのかしら。ここまで軽くそういう隠喩を飛ばすことを可能とした萌え4コマ玉岡かがりism、凄いなあ。
とりあえずメイベルさん可愛くていいですね。

「R18!」(ぷらぱ

里佳子は頭がおかしいなあ。
「頭がおかしい」についても、もうちょっと精緻に検討する必要がありそう。猛烈に頭が良い訳ではないのに、「会話が成立しない」系の頭のおかしいキャラを出すことに成功したことは、萌え4コマの成熟を意味しているかもしれない。といいつつ、まあエロゲとかの文脈からきたキャラなのかもしれないんですけれどね。

「まん研」(うおなてれぴん

色彩ネタみたいなの好きです。
普通の感覚の人をだんだんオタク的感覚に馴らしていく、とか、だんだんエロへの抵抗を薄くしていく、とかいうのは未だに全然分からないです。「この人なら絶対好きになるはず!」というのならともかく、そうでもないのに何故オタクに染め上げなければいけないのだろう?
そんなんよりテロ的手法のほうが7兆倍リアルで、恐ろしいのでは。テロ的手法というのは例えば「中学生がエロゲを焼きまくって後先考えず何十人ものクラスメイトに配布しまくる」とかそんな感じ。世間のルールを内面化した人間が、自らの神を信じて疑わない人間に、勝てるでしょうか? 全身全霊もこめずに人をオタクに「染める」とか傲慢な気がします。
まあ僕にコミュニケーション能力(笑)がないからなー。