「まんがタイムきらら」10月号

萌え4コマ一般」について考えても生産性はない。個々の作品でどのような特殊なことが起きているかを見ることこそ重要だ。
と、自戒をこめつつ。

けいおん!」(かきふらい

6ページ1コマ目の潰れた顔は良くない兆候な気がする。
あとラストでいい話になってびっくりした! うーむ、やはりこの状況だとそういうことは考えちゃうのかな……。

「あっちこっち」(異識)

女性陣もゲームが上手いことについて。真宵はともかく、姫とかどこでゲームやってるのかしらん。うーん?

ふおんコネクト!」(ざら)

この作品において人間関係と距離との関係は「やっぱり離れると疎遠になっちゃう」を前提として「"それでも"、繋がってる」というものなので(希望はいつでもある、ただしそれは瞬間的に浮かび上がるような存在で、常に保持し続けられるものではない、みたいな)、それが許せないであろう交流が友人関係の継続を求めて裏工作を仕掛けるのは、正しい判断。ついでに言えば、将来へのわくわくなんて基本的に妄想だ。
交流というのはすべて正しく物事を理解している存在なのだが、人間は物事を正しく認識していないが故に生きていられるのであって、交流の「未熟さ」というのはそこで生まれる摩擦のことに他ならない。彼女のメンヘルさは彼女自身の認知の誤りに由来するのではなく、むしろ認知の正確さにある。「うつ病の人間の方が事態をより正しく評価できる」という話の論理を逆転させたみたいな。
ついでに言っておくと、交流が株長者として描かれるのは、ぐろーばりぜーしょんでねおりべな世界観は個人の判断の合理性と完全情報(上で述べたとおり、それこそ三日科交流そのもの!)という夢を見ているから。その仮定の下では原理的に、三日科交流は間違えない。

ゆゆ式」(三上小又

ゆずこに対する視線が初期より強いような気がするのですが。例えば、47ページ左側3コマ目と4コマ目の表現は個人の魅力を引き出すために行われる手法(古くは大阪さんとか、あずまんがでよく行われていたやつ)でしょう。ゆずこの即興力→それを綺麗に拾う縁の反応速度、という会話パターンが安定してきたことも大きい?
……それはそれでまずいですね。

「SweetHome」(やまぶき綾)

前も似たようなこと書いた気がするけど。
ちょっと違った感じの服を着てお出かけ。に従って、今回のこの作品、イデオロギーが普段とは違う。盲目さは影を潜め、そして何より、陽向の心情描写がない。
イメチェン=キャラクタの再解釈=世界内法則の改変で、世界の仕組みを一時的に変えることによって「一歩進展」を実現させた訳ですね。

「≒ - ニア・イコール -」(むらたたいち

平行世界の性別が違う自分、というのは根本的に思考実験ではなくシチュエーション、キャラではなく性嗜好の話なので、だからそういう嗜好の人による「そのテの小説を集めてみました!」というサイトがあるわけですけれど。
特にオリジナル作品の場合は、「自分と同じ」の「自分」が何か、という問いに対して何も答えられないので、文字通り主人公に同一化して「自分と同じ」を想像して、というのしかないのですよね。それはかなり難しいので細心の注意を図ってやらないといけないというのは作者分かっているのかなあ(人間は自分自身を見ることが出来ない以上、平行世界の自分が現れたらそれはのっぺらぼうで、そいつとのコミュニケーションは言葉の最も正確な意味で「不気味」なもの)。

「境界線上のリンボ」(鳥取砂丘

過去を保存しておく=メンヘル行為、なのでこの作品がこういうことをするのは正しい。勿論僕はメンヘル側に立ちますが。
あと、その対立の外側には「たくさんの思い出がある、他には何もいらないくらい」という言葉があるわけですが、それを持ち出さないのも……まあ、まっとうですよね……。

「ましゅまろ×タイフーン」(源五郎

ラスト。「何か誤解してない? お母さぁんっ!?」という弁明があるけれど、誤解も何も実際に雛ときなこがしていたのは「お邪魔でした〜」な行為であって、雛の自己認識こそがこの関係において異質な存在になっている、というのは指摘しておくべきかな。
すべてセクハラではなく単にセックスである、と。
(セックスとはベッドで性器同士を結合する行為のことではない――まあ百合だから当たり前)

まーぶるインスパイア」(むねきち)

何故パラレルなもう1組を出したのか、いまいちよくわかんないな……。
基本的には、女子中学生たちの生活を隠しカメラで(勿論性的な目的で)撮る、という話なので、ここでもう1グループ盗撮対象を増やすというのは、なんかちぐはぐな気がする。

「さむどら」(こころけ)

めちゃくちゃ面白い!
キャラクタが「何を言ったか」「何を考えているか」「何を感じたか」が分離されていて、そのズレを自由自在にコントロールしている。「日常描写」(=「コミュニケーション」という奇怪な存在が如何にして成立しているか、その原理を解明しようとする野心的な試み)とはこうあるべきものです。
しかも、この分離によって存在可能になった師匠のキャラクタがまた極めて魅力的なので、もう限界。
それから、感情表現として「ピヨ」とか奇妙な図柄が背景に描かれることも注目したい。この図柄、絵に独特のインパクトを与えていて好きです。
いや、もう、主戦力になれそうな作家が久しぶりに出た! としか。超期待!