「コミック百合姫」Vol.12

作品――短編百合作品を手筋というブロックに分解して作品を読み解くことの功罪について考えている。極めて有用であることは間違いないのだが。
沢山あるつまらない作品をけなしてもしょうがないので、何か考えさせられた作品についてのみ書きます。

「さくら文通」(日輪早夜)

髪の描写が僕の読まない類の文化圏のものでした。
それはともかく。「その人の本当の心は、もう文章で知っている」というテーゼが百合的なので、この作品が凡庸で世界にもう何千と存在していることは間違いないですがまあいいかという気にはなりますよね。

「クローバー」(乙ひより)

極めて優れています。
乙ひよりの手筋遣いっぷり、特に旋回の手並みの軽やかさについてはもはや言うまでもないのだろうけれども。好きの定義、内面と見かけの二項対立、恋愛の二者択一性、そこらへんを一通り検討しきった感を平然と見せているのは、この世知辛い商業百合業界においては嬉しいことです。重力を人間を地球に縛り付ける枷として把握するよりも、Newton力学をルールとして分析し、その知識を利用して宇宙へ飛ぶロケットを設計する方が、善いことではないでしょうか、と、ここでの「検討」とはそういう意味です。
その上で、フラレ女萌えという僕の属性をしっかりとした照準で射抜いたので、もう言うことはありません。

「いちごいちごいちご」(タカハシマコ

てーか、流石に誰かが言っておくべきだと思うんですけど……百合とは少女に関する諸問題を扱うジャンルではありません。
個人的には、少女がどうとかいうのを大々的に百合に持ち込むのは、あんまりよくないんじゃないかなあ、と思っています。少女がどうの、というのは百合の中では重要ではあるもののサブ・テーマに属するんじゃないかと。非常に優れた人々の間でも(意図的に?)混同がなされているっぽいので、そこらへんはっきりさせないとまずいなあと思っています。
勿論少女に関する諸問題も僕にとっては非常に巨大な、巨大な、巨大なテーマですが、最近は、「少女」という単語の背後に存在するイメージ、僕たちが2次創作小説を読みながら確かに感じたあのイメージを抱きながら、「少女」という文字列以外のものを持ち込まないことこそが一番よい立場なのではないかな、と思っています(ちなみに、「少女=砂糖+毒」みたいな至上主義というか嫌がらせというかオリエンタリズムというかは、どうかと思うのですがどうでしょう)。
えーっと、で、この作品の話でした。まあ前置きが本論より長いのはいつもだからいいよね?
いや、それを踏まえたうえで、上手いです。「女の子」という言葉を言葉そのものの形で飛ばしているのもですし、「少女」は得体の知れない恐ろしい美しき存在であるみたいな押し付けもないし、読まず嫌いしていたのですがもしかしていい作家なのかもしれません(あるいは、いい作家になってきたのかもしれません)。

「うつくしいもの」(袴田めら

最近の袴田めらの迷走については、時間があれば整理したいところなんだけれども、むー。
「百合は少女の揺れる心を描くべき」とかいう圧力の問題? よく分からない。