最近、短編漫画はペンシルパズルに近い、ということを考えている。玄鉄絢はタラちゃんレヴェルのへやわけフィルオミノを量産する名作家、藤枝雅の作品の多くは標準的な17*17ぬりかべ――といった調子で。この比喩は非常に便利で、例えば「作者の頭がめちゃくちゃ良さげに見える」が「優れたタラちゃん・あぜん坊作品」と言い換えられたり、作品のよくないと思える部分が、ペンシルパズルで言い換えると「単純仮定の濫用」と端的に表現できたりとか。
ただ、これは、漫画とペンシルパズル、両方の豊かさを縮小させている比喩のようにも思えなくもない。恐らく、漫画とペンシルパズルの背後には共通の構造が隠されていて、その共通の構造を言葉で直接表現することが極めて困難であるために、「漫画をペンシルパズルで言い換える」という行為が必要になってきている、というのが正しいのであって、漫画を全てペンシルパズルで言い換えてしまうと、ある種の部分が見えなくなってしまうように思える(漫画→ペンパという射のKernelはそれなりに大きい、と言えば一部の人に分かりやすいかもしれない)。
のでまぁ、上手く付き合っていきましょう、と、結論はそれだけなんですけれども。
あと、遣いたくない理由としては、単純に漫画もペンパも「作品」だから、この比喩がストレートすぎてつまらない、というのもある。
(補足:昔の僕はかなり熱心なニコリ読者でしたが、ここ3年ほどペンシルパズルを殆ど解いていないので、この記事にはいつも以上に眉唾ものです)