「嘘つきみーくんと壊れたまーちゃん ― 幸せの背景は不幸」(入間人間)

ネタバレ気味。よって続きを読む方式で。


永遠のフローズンチョコレート」と似たような話かと思ったら、対極だった。
つまり、作者の願望と弱さとが、いい感じだと。
例えばこの作品内に、みーくんとまーちゃんとのセックスの描写は無いわけで。残念ながら僕は彼女が云々どころかここ数年でまともに同年代の女性とまともに顔をあわせた経験が数えるほどしかないような、びっくりホモソーシャルワールドの住人なため、男女交際のどうのこうのというのは全く存じ上げない訳で、普通に考えたらセックスしているのかしていないのかなんて推し量れないのだけれども(多分、一般的には「普通に考えたら」セックスしているということになっているんだよね? 全く自信なし)。何にしろP.106の時点で「まだ人前でキスする程度の仲ですよ僕ら」とか、なんとも腰が引けてるなーというか、作者がいわゆる「現実」の代弁者であるようには見えない。少なくとも、淡白に「基樹と理保は寝ましたよ。それがどうかした? 誰かとセックスしようが、相変わらず日常はそのままですよ」って書こうとする「永遠の〜」とは違う。どうせ作者が引きこもりの若造だというのならば、「嘘つきみーくんと〜」の方が7兆倍好ましい。
そう、「永遠の〜」は敗北主義だった。世界は世界の都合でしか動かず、ささやかな永遠は血も涙もない時間に踏みにじられ、灰色の日常は終わらない、だそうで。
そう言われても、実際のところ僕たちは当然勝利しているわけで。「現実」とやらの代弁者が自意識過剰の中二病だとか喚こうが、大抵の場合まず負けない。まぁ、特に理由があるわけでもなく、ただ単に僕たちは勝利している。世界は妄想通りに美しいし、モラトリアム卒業だなんて誰かの寝言だし、素敵な日常は終わらない。「嘘つきみーくんと〜」には、そういうことが書いている。
特に理由もなく、僕たちは大体において勝利している。
どんでん返しで、殺人事件も誘拐事件もハッピーエンドに終わる。主人公の行動に対して読者の感じる良心の呵責はぐっと縮小し、みんな幸せになり、そして、何も決まらない。
ハッピーエンド。
そう、ハッピーエンドって素敵だよね。何が素敵かというと、選択肢が二つしかないフリをして二択を突きつけるような糞プロットとは一線を画しているところ。
この小説のラストも、「さーて、そろそろ決断しなくちゃなあ。といっても幸い時間はあるし」とかそんなことが書いていて、とてもいい。成長とか断念とか社会への適応とか、そういうのは絶望以上に糞だ。中二病患者が中二病患者として生きる場所が、きっとこの世界のどこかにある。