「ラグナロクオンライン アンソロジーコミック(マジキューコミックス)」1-20巻

とある筋より入手したので、だらーっと読んでいる。
双見酔目当てで入手し、勿論ふたみんはすばらしい作品を描いていたのだが、それだけでなく多くの作家が非常によくできた作品を描いている。商業アンソロとは思えないほどにレヴェルが高い。


VNIMSN Messenger葉鍵板、伺か、東方。つまり、あの2002-2004年頃に、僕たちが何を信じていたかということ。
CLANNADは人生」という言葉の虚しさ――それは葉鍵板が完全に力を失ったことを示している――を、あらゆる空虚さを友として読み替えるならば、それなら、このアンソロを読んだ後では「ROは人生」としか言いようがない。
恋愛、友情、転生、記憶。残念ながら僕はこれまでネトゲをやったことがないのだが、言われてみればなるほど、ネトゲの画期性はコミュニケーションにあるのであって、それならこれだけ恋愛ネタが多いのも頷ける。
再び「こねロス」(へっぽこくん)についての感想を引用しよう。

ネットゲームを百合向き(んー、萌え向き、と言った方がいいかな。微妙)に再解釈している。この腕前が自然ですばらしい。
きららに掲載される多くの萌え4コマでは、PC・ネット関係のものを廃人的に再解釈している(恐らく、これはきららの多くの作者が同人・webcomic出身であることが大きい)。漫画をコントロールする、という側面においては、この解釈は非常に便利だと思う。しかし、萌え的には(=百合的には)嫌な感じにすさんでいる気がしなくもない。
「ゲーム内のキャラクタを演じている自分を、俯瞰している自分が居る」、という感覚がすさむ原因かな。いつも思うのだが、何よりも重要なのはロールプレイが樂しいということで、寝不足だよあははーとかはどうでもいいことに分類されるはずだろう。
さらにいえば、悪い子が更正する話ではないところがすばらしい。悪い子は駄目だが、悪い子が更正するのはもっと駄目じゃないだろうか。

僕は甘かった。ロールプレイという理解は全く不十分だ。ネトゲはすべてであって、一部ではないのだ。毎日長い時間をネトゲ世界で過ごす人において、「ネトゲの自分」とは違う「本当の自分」を想定することは無意味だ。


※ええと、勿論のこと、この議論は勿論「ニコニコは人生」みたいな形にも持っていけるのであって(実際にはそうではない)、それについて語るには、あの頃僕たちが何を信じていたかについて、想い出す必要がある。