「まんがタイムきららフォワード」10月号

S線上のテナ」(岬下部せすな

気に食わない。「いつも気を張っていた彼女にも安らげる場所が」っていうのは、なんとも気に食わない。
僕は「いつも気を張っている女の子」を本気で応援している人間なので。「安らげる場所が」って、そんなの単に内部工作によって彼女の意志を崩しているだけでしょう、と。
テナの理想とする姿を、彼女に実現させてあげればいいじゃないの。極論を言えば、「気を張り詰めすぎたら疲れる」なんていうのは、「彼女のその願いを実現するためには、気を張り詰めなくちゃいけない」という現状が悪いのであって、そんなの革命でも起こしてその状況を変えてしまえば宜しい。
……「少女革命テナ」?

「わさびアラモードっ!!」(もみじ真魚

筋の通った話である。それ以上は別に何も。

うぃずりず」(里好

敵だよなあ。
小学校の頃の初恋、というテーマは抑圧的だ。まさか「小学校のころはよかったなあ」だなんてノスタルジアに浸るだなんて、みっともなさ過ぎる。
例えば、コイバナ。「要するに○○は××が好きなんでしょ?」という表現は、萌え4コマの対極にある(フォワードは4コマじゃないけれども、まぁそこら辺の括りということで。もともと「うぃずりず」は萌え4コマだし)。それこそ世界でも革命できちゃいそうな圧倒的な多幸感、「ずっと高二(幸)」、オプティミズムこそ、芳文社が定式化した「萌え4コマ」だったはず。勿論、それだけが道ではない訳で、ノスタルジアというのも勿論のことありまくりだけれども、それは(再び里見の言葉を借りるならば)"wish you were here..."のはずであって、かつて自分の体験した過去をよかったと懐かしむものではないでしょう、と。そんなのは萌え4コマがダサいと捨て去った部分だとばかり思っていましたが? オヤジの懐古ではなく、ロマン主義をください。
ましてや、ここで「あった」ことになっている小学校の思い出なんてものが、実際あった保障なんて、どこにもないのにね?

「あるころじっく」(大富寺航

キャラクタの魅力こそ最も重要な関心であるのに、この作品では、その部分に割くエネルギーの割合があまりに低すぎると思う。

「桃色シンドローム」(高崎ゆうき)

ウソでも本当でも楽しそうな風景はそれだけで糧になるのか。
それなら僕は気持ちの良い方を信じるのか?
問われた以上は、答えねばなるまい。とりあえずは、考えちうー。

「CIRCLEさーくる」(榊)

こんなことばっかやってると、世界を薔薇色に染め上げる多幸感になんて、いつまでたっても辿り付けませんよ?
ということで、こういうのをリアルな心理描写とか言ってる奴が言ってたら殺してやるぅ。

「据次タカシの憂鬱」(あどべんちゃら

あの作品をベースにあの作品やあの作品を適当に足し合わせて劣化させただけ、という分析は勿論出来るし、実際その通りなのだが、作者の信じている世界、表現しようとしている世界について言えば、共感できる。
パクリか、という問題系よりも、僕はそちらの方に興味がある。

「ろりーた絶対王政」(三嶋くるみ

フィクション的な無敵さが引き剥がされ、やはりフィクション的な僕たちの世界に引き下ろされる。
つまり:今回程度ならば、小鳥遊るるはそこまで怖くない。なぜなら、何を考えているのか分かるから。
聖性が、不気味さが失われるのは、必然であり、起きて然るべきことである(少なくとも、人類が2次創作を知った後であれば)。だから、驚きは、しない。
しかし、「何を考えているのか分かるから怖くない」という理屈は、現実に存在した全体主義体制とかを無視した言葉な気もする。いわゆるところの、ラノベの読みすぎって奴。それを恥じるつもりはないので、とりあえず言いっぱなしにしておくけどさ。
しかし、えー、雑誌最後尾ですか。この作品が終わるならまだ我慢できるけれども(どちらかといえば短編が読みたい)、このまま三嶋くるみが居なくなったりするのは勘弁だぜ。