「そして僕らは家族になる」(荒木風羽)1巻

家族合わせのエピソードからも分かるとおり、家族というのは第一義的には父とか娘とかそういう役割名の集まりのことなので、擬似家族モノってかつては嫌っていたその役割を引き受けて(成熟して)いく話だったり、役割を形式的に引き受けていく中で芽生えていく絆を描く話だったりする訳だけど、この作品はそうではない。役割名で呼ばれるのは鈴音さん=「お母さん」のみ。
ではここでいう家族ってなんだろう?
僕たちは「家族」「恋人」「友人」「上司」「クラスメイト」といった貧しい括りでしか関係の言葉を持っていない、ということを示していることは間違いない。普段考えているスキやキライという言葉が貧しい括りであることを明らかにするだけでなくて、それをちょっと複雑でとっても素敵な意味に読み替えたときのように、家族という貧しい言葉に素敵な関係を詰め込もうとしているのかもしれない。
クレバーな彼女のことだから、そのための準備はきっと揃えているのだろう。


それにしても百合的な読みが難しい……。こういう作品で説得力の有る百合読解をするには、ヤバい系の2次創作に持っていく必要があるんだよなー。それなしで妄想できないかなー。
……あ、女体化か。

印象深いラノベの表紙を挙げよ、といわれて迷わず出てくるのは「ヒトクイマジカル―殺戮奇術の匂宮兄妹」と「涼宮ハルヒの消失」だったり(はいはい超有名シリーズ乙)。
2002年の冬、平積みで書店に並ぶ、美しい夕焼け色の「ヒトクイ〜」は忘れがたい。僕は戯言シリーズの後半が好きで、あの、様々なものを投げ捨てて、どんどん軽くなりながら速度を上げていく、ロケットのようなスレスレさは本当に美しいと思うのだけれども、その美しさを象徴する表紙がどれかといえば、それは「ヒトクイ〜」以外にありえないと思う(ちなみに、両面表紙ネタはどうかといえば、うーん、まあ面白いけど、どうなんだろう?)。
涼宮ハルヒの消失」。似た印象の語「憂鬱」「溜息」「退屈」から離れた、タイトルの「消失」。そして、「第3巻まで出た後に第4巻でどのような表紙になるのか、順当に考えれば古泉かな」とか考えていたときに、ネット上の新刊情報で現れた朝倉涼子の、あの表情!(アニメ化のときとかにハルヒシリーズに興味を持った人の多くは、あの表紙のインパクトに気付いていないのだろうなあというのは、ちょっと悲しい――ので、書くことにした)
シリーズにおいて新作を出すことについては、「それまで読者がどのような想いを作品に対して抱いていたかを前提として、その想いをどう崩すと盛り上がるか」という面なしには語ることができないわけで。その議論は、ある種の2次創作にも通じるというか。

http://d.hatena.ne.jp/sayuk/20081030/p1
で既に告知されていますが、close/crossさんの同人誌「Girls' Comic At Our Best! vol.03」に寄稿させていただきました。
タイトルは「ときに作品のテクニカルな部分にこそ本当の気持ちは宿ったりして/三嶋くるみ『ろりーた絶対王政』について」ということで、まあ大体そういう内容の話です。いわゆるゼロ年代というのは(個人的な体験としては)「洗練」「テクニック」の全面化が進行した時期だと認識しているのですが、どうすればそのような中で個人は(愚かな)実存を語り得るのか? とかそういうことを最近考えていて、一応それの第一歩として。例によって、書いていることは論とか考察とか紹介ではなくて、プロパガンダまたはプログラムです。
僕のは恐らくレヴェル低いですが、他の人々は凄いのでぜひぜひ。

「ラグナロクオンライン アンソロジーコミック(マジキューコミックス)」1-20巻

とある筋より入手したので、だらーっと読んでいる。
双見酔目当てで入手し、勿論ふたみんはすばらしい作品を描いていたのだが、それだけでなく多くの作家が非常によくできた作品を描いている。商業アンソロとは思えないほどにレヴェルが高い。


VNIMSN Messenger葉鍵板、伺か、東方。つまり、あの2002-2004年頃に、僕たちが何を信じていたかということ。
CLANNADは人生」という言葉の虚しさ――それは葉鍵板が完全に力を失ったことを示している――を、あらゆる空虚さを友として読み替えるならば、それなら、このアンソロを読んだ後では「ROは人生」としか言いようがない。
恋愛、友情、転生、記憶。残念ながら僕はこれまでネトゲをやったことがないのだが、言われてみればなるほど、ネトゲの画期性はコミュニケーションにあるのであって、それならこれだけ恋愛ネタが多いのも頷ける。
再び「こねロス」(へっぽこくん)についての感想を引用しよう。

ネットゲームを百合向き(んー、萌え向き、と言った方がいいかな。微妙)に再解釈している。この腕前が自然ですばらしい。
きららに掲載される多くの萌え4コマでは、PC・ネット関係のものを廃人的に再解釈している(恐らく、これはきららの多くの作者が同人・webcomic出身であることが大きい)。漫画をコントロールする、という側面においては、この解釈は非常に便利だと思う。しかし、萌え的には(=百合的には)嫌な感じにすさんでいる気がしなくもない。
「ゲーム内のキャラクタを演じている自分を、俯瞰している自分が居る」、という感覚がすさむ原因かな。いつも思うのだが、何よりも重要なのはロールプレイが樂しいということで、寝不足だよあははーとかはどうでもいいことに分類されるはずだろう。
さらにいえば、悪い子が更正する話ではないところがすばらしい。悪い子は駄目だが、悪い子が更正するのはもっと駄目じゃないだろうか。

僕は甘かった。ロールプレイという理解は全く不十分だ。ネトゲはすべてであって、一部ではないのだ。毎日長い時間をネトゲ世界で過ごす人において、「ネトゲの自分」とは違う「本当の自分」を想定することは無意味だ。


※ええと、勿論のこと、この議論は勿論「ニコニコは人生」みたいな形にも持っていけるのであって(実際にはそうではない)、それについて語るには、あの頃僕たちが何を信じていたかについて、想い出す必要がある。

さらに引き続き「ろりーた絶対王政」を読み返している。
今後の流れが予測できた気がする。が、捌く手順が難しい。どちらも後には回せない手だ。理論上は同時進行で一気に捌くのが美しいのだが、それを実現できたらもはや人間業ではない。
とはいえ、「さくらふぶきに咲く背中」(中村明日美子)からも分かるように、この世界には人間業でない綱渡りをこなす能力がある人がいる。三嶋くるみほどの作家ならば、ぜひとも同時進行を狙って成功させて欲しいと思う。